カリフォルニアの風

サンフランシスコ日本語補習校通信

平成20年度(2008年度) 第4号

2008年8月30日()

子どもに「誇り」を

サンフランシスコ日本語補習校 校長 植木 進策

ミツコ・クーデンホーフとうい女性をご存じでしょうか。今回はこの人を紹介します。

光子は青山光子として1874年東京で生まれました。父は、東京の青山という地名のもとになったともいわれる大地主でした。光子は18歳のとき、当時のオーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理公使として来日していたハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵と出会います。二人の両親は西洋人と東洋人のカップルに大反対しますが、それを押し切ってふたりは結婚しました。日本人女性が国際結婚した第一号といわれています。1896年にハインリヒとともに彼の故郷であるヨーロッパへ渡り、7人の子どもを育てます。しかし、ヨーロッパの貴族の婦人としての生活にも慣れてきた1908年、ハインリヒが突然亡くなってしまいます。遺言には「全財産を妻に任せる」と書かれていましたが、夫の遺族はそれに反対して裁判を起こしました。光子はこの裁判に果敢に戦い、勝利します。

そのころは、日露戦争が終わったばかりで、大国ロシアを打ち破った日本が注目を集めていました。はれてクーデンホーフ家の当主となった光子は、ウイーンの社交界で「黒い目の伯爵夫人」として花形的な存在となりました。しかし、この幸せも長くは続きません。第一次世界大戦が始まり、光子が暮らすオーストリアと故郷の日本とは敵国同士になってしまったのです。通りを歩くだけで罵声を浴びせかけられるようになった光子ですが、赤十字の活動に参加したり、領地でジャガイモを栽培して周辺住民に提供したりして賞賛を受けます。フランスで「ミツコ」という名前の香水ができたのもこのころ(1919年)です。次男のリヒャルトは、EUの基礎となる思想を唱えた人物として知られています。彼は「母がいなかったら、私は決してヨーロッパ統合運動を始めることはなかったでしょう」と語ったと伝えられています。(海外子女教育より)

現在、国際結婚をされた方も含めて多くの日本人が海外に住まわれています。その方達はおそらくそれを決断されるまで、とまどいや、葛藤をもたれたことと思います。「ミツコ」もことの大小はあれ同じことを経験されたことと思います。彼女の偉大さは、未知の世界に飛び込んでいく勇気と共に、危機に際しては、敢然と挑戦し、それを乗り越え、また、逆境にあっては、ねばり強く耐え、それを変えていこうとするしたたかさを持っていたことではないでしょうか。香水「ミツコ」の香りは「優雅で華やか、控えめで激しい」と表現されています。ミツコの人生は決して順風満帆だったとはいえません。人生後半は苦しく、特に第二次世界大戦後、領地の大半を失ってから後は大変だったようですが「伯爵夫人」として生涯を通しました。

私は、彼女のこのような考えや行動の根底にあるものは、「日本の女性としての誇り」ではなかったかと思います。明治の女性として、彼女は、しとやかさ、激しさ、たくましさを周囲の人たちから学びとってきたのではないでしょうか。補習校には、これから世界に羽ばたく多くの子ども達が学んでいます。この子ども達に、この「誇り」持ってもらうためにはどのようにしたらよいのでしょうか。これは、学びとらせるものでなく、感じ取らせるもののような気がします。我が家の伝統、我が家の誇り、そして日本人としての誇り、そして自分自身の誇りそれらを感じ取らせていくには、仕掛けることが必要だと思います。日本でもアメリカでも、人を感動させる人生を送った人がたくさんいます。伝記物を周りに置いたり、さりげなく我が家の伝統を創ってみたり、我が家に昔から伝わってきている教えを実践してみたり、一度考えてみられてはいかがでしょうか。本校も、来年は40周年になります。子ども達が、補習校に通っていることに誇りがもてるよう、保護者の皆さまと手を携え、教職員も誇りを持ち、頑張っていきたいと思います。 どうぞよろしくお願いいたします。